死を覚悟したお遍路さん
四国八十八ヶ所を巡るお遍路は1200年の歴史があり、多くの人を引き寄せています。現在では、外国人のお遍路さんも多くなり、日本を代表する観光地となりました。
最近ではバスツアーによるお遍路が人気ですが、お遍路が気軽に行ける観光地となったのは昭和になってからです。それより前の時代、携帯電話舗装された道路、コンビニはなどはほとんどなかったからです。
このようにお遍路の環境が整う前は、お遍路は厳しい修行でした。食べ物、水、宿の確保は今より困難な状況です。厳しい環境に身を置いて精神や肉体を鍛えていたのです。
つまり、以前のお遍路は死と隣り合わせだったのです。そのため、お遍路さんは死に装束である白衣、卒塔婆の代わりとなる金剛杖、棺桶の文字が書かれた菅笠を最初から身にまといお遍路をしていました。
どこで息絶えても成仏できるようにという考えです。この服装は現在でもお遍路さんの衣装として残っています。
やはり、本当に厳しい修行なのでお遍路の途中で行き倒れてしまう人もいました。そのような人は地元の人によって埋葬され、お墓が作られました。このようなお墓は「遍路墓」と呼ばれています。
お遍路の道中に見られる遍路墓
お遍路中に亡くなってしまった方の遍路墓は現在でも残っており、歩き遍路をしていると道中で見かけることがあります。簡素なスタイルだけでなく、立派な墓石がある遍路墓や土を盛ったような遍路墓もあります。
地元の人が遍路墓を子孫へと語り継いで、管理を行っているために現在でも残っているのです。しかし、過疎化や高齢化などによって遍路墓の存在を知る人が少なくなっていることも事実です。
また、八十八ヶ所の札所やその周辺の札所にはお遍路中に亡くなった人の記録が過去帳として残っているケースもあります。徳島県の19番札所立江寺から23番札所薬王寺の間では1700年代~1800年代に156例の客死遍路の記録が発見されたという報告があります。
お遍路は単なる観光スポットではない
今も昔もお遍路に来る人は様々な思いを抱えています。そして、様々な人がお遍路を支えています。
お遍路を支えているのは札所の住職だけではありません。檀家さんや地域の人もお遍路を支えています。お接待をしたり、遍路道を整備したり、遍路墓を語り継いだりすることでお遍路は1200年の歴史を刻んできたのです。
お接待を受けたとき、整備された遍路道を歩くとき、遍路墓を通り過ぎるときは、誰しも深く考えさせられます。そのため、お遍路は見て終わりの観光スポットとはレベルが全く異なります。
何を感じるかは人それぞれですが、心に響くものがあるかもしれません。