なぜ、はりまや橋は高知の観光スポットなのか
はりまや橋は漢字で書くと「播磨屋橋」となります。高知県高知市の中心部にある道路橋で、その名は全国に広く知られています。しかし、はりまや橋は小さく、目立たない所にあるのでがっかりスポットとしても有名です。
では、なぜはりまや橋が全国的に有名なのでしょうか。
はりまや橋の名の由来は、江戸時代に土佐の豪商である「播磨屋(はりまや)」と「櫃屋(ひつや)」の本店が堀を挟んで立てられていたことに起因します。両者が往来のために架けた私設の橋がその始まりだとされているのです。
実は、はりまや橋は単なる綺麗な橋ではなく、悲しい恋の物語の舞台となっているのです。その物語は高知県の民謡である「よさこい節」でも歌われているため、名前が知れ渡りました。
はりまや橋の物語
江戸時代末期のお話です。現在の高知市郊外の五台山にある竹林寺には純信という僧侶がいました。竹林寺は四国八十八ヶ所の31番札所にも当たる荘厳なお寺です。住職である純信には思いを寄せるお馬という女性がありました。
あるとき、次のようなうわさが高知中に広まってしまいました。「日ごろ修行を積む僧侶が女にはりまや橋の小物屋で髪飾りを贈ったらしい。」
追い詰められてしまった2人は駆け落ちすることを決めたのです。しかし、駆け落ち中の2人は関所で捉えられ高知に戻されたのちに別々のところに追放され、結ばれることはありませんでした。
現地に足を運び、二人のロマンスに思いをはせるのも一興でしょう。二人の在りし日の姿を再現した蝋人形が、龍馬歴史館に展示されているので、先にそちらを見てから記念碑を確認するのもおすすめできます。
現在のはりまや橋
なお、はりまや橋は名前にこそ「橋」がつくきますが、元々は人が作った堀を渡るために作られたものです。つまり、元から川の上に存在しない橋です。
しかも、昭和3年(1928年)の街路整備により周囲の様相が一変し、1960年代になると堀さえも殆ど埋め立てられてしまうという状態に直面しました。
しかし、平成10年(1998年)に朱色の欄干から石造りの橋にリニューアルし、はりまや橋公園を整備する際に、歴代のはりまや橋が復元され、橋の下には人工水路が設置されたため、現在はかつての姿を取り戻しています。旧欄干ははりまや橋公園の地下に保管されているので、そちらも要チェックです。
また、はりまや橋はペギー葉山が歌った名曲「南国土佐を後にして」と縁が深いことでも知られています。そのため、歌碑が作られ午前8時半から午後8時半まで一時間おきにペギー氏の歌を流し、傍らにある鯨の親子が潮を吹くという演出を見せてくれます。
夜中にはライトアップされて情緒が増すので夜のはりまや橋もおすすめです。