お遍路(おへんろ)の意味は?
お遍路は四国88ヶ所の寺院を巡る旅です。お遍路は1200年の歴史を誇り弘法大師・空海が始めたとされています。長い歴史の中で独自の文化や風習が結晶化し今日に至ります。
簡単に言うと、お遍路は寺巡りです。しかし、京都観光のような寺巡りと決定的に異なります。四国全体に根付く文化や風習があるからです。
四国に住む人は巡礼者を「お遍路さん」と呼びます。小学生でもすれ違うお遍路さんに挨拶をします。また、お接待と言って、お遍路さんに食べ物や飲み物を無償で与える習慣もあります。このような光景は四国以外ではありえません。
地元の人だけでなく、巡礼者もお遍路に強い思いを抱いていることがあります。一生に一度はお遍路をしたいと思う人、死者の供養のために巡る人、自己鍛錬のため歩いて巡る人などがいます。お遍路は単なる観光で片づけられません。
お遍路の始まり
弘法大師・空海はお遍路を語るうえで欠かせません。お遍路の始まりは約1200年前の平安時代だといわれています。真言宗の開祖である弘法大師が42歳の時に仏道の修行の場として八十八ヶ所を開きました。
しかし、お遍路の起源は諸説あり、明確な事は分かっていません。さらに、88という数字が記録として書物に初めて登場したのは、弘法大師の時代から800年が過ぎたの江戸時代になってからです。
起源がはっきりしない理由の一つに、初期のお遍路は現在と異なるスタイルだったことが挙げられます。初期のお遍路は修行だったのです。僧侶が弘法大師の修行の地を尋ね歩くというもので、お寺をスタンプラリーのように巡るというスタイルではなかったと考えられています。
ただ、間違いなく言えることは、弘法大師・空海という一人のスーパースターの存在によりお遍路は生まれ、1200年の歴史を守れたということです。
お大師様とは
お遍路の世界に足を踏み入れると「お大師様」、「お大師さん」という言葉をよく耳にします。お遍路さんや地元の人々は「弘法大師」とは呼びません。弘法大師の存在を身近に感じるために親しみを込めてそう呼びます。
お大師様こと空海は真言宗の開祖として知られています。平安時代に遣唐使として中国に渡り、密教という新しい仏教を日本に持ち帰った人物です。
若いころの空海と四国には深い関係があります。そもそも香川県出身で幼少期を過ごし、学生として一度上京しますが19歳の時に再び四国に戻り修行を積みました。高知県室戸岬と徳島県大滝嶽が修行場所として資料に記録されています。
修行を積み重ねた空海は悟りを開き、四国を離れました。その後に、歴史に残る大活躍をすることになるのです。
お遍路さんとは
四国に住む人は「お遍路さん!」と巡礼者に呼びかけます。あなたもお遍路をすれば必ず呼ばれることになるでしょう。
・お遍路さんこんにちは!
・お遍路さん頑張って!
お遍路は四国の日常に溶け込んでいるので、お遍路さんを不思議に思う人は誰もいません。また、お遍路の大変さを理解しているので尊敬や応援の気持ちを抱きます。それが「お遍路さん」という愛称につながるのです。
多くのお遍路さんは同じような格好で巡礼をします。白装束、金剛杖、菅笠を身に付ければ一目でお遍路さんだと認識されます。
その衣装は死装束を意味します。過酷なお遍路の途中で息絶えたとしても、そのまま成仏できるようにという意味や、俗世を一度離れて修行するという意味が込められています。

お遍路 お遍路

お遍路で巡る88ヶ所の札所
四国にある1番から88番まで番号の付けられている札所をお遍路さんは巡ります。88ヵ所の札所は四国4県、徳島、高知、愛媛、香川すべてに存在し、四国の海沿いを一周するように配置されています。
お遍路は歩いて1200km、車で1400kmの距離を移動する長旅になります。
1番札所の霊山寺は徳島県鳴門市にあり、88番札所の大窪寺は香川県さぬき市にあります。そのため、1番→88番という順番に巡拝すると徳島→高知→愛媛→香川という順に進むことになります。
お遍路は順番どおりに巡拝しなければならないというルールはありませんが、順に巡る方法がメジャーです。

札所の数
徳島県(発心の道場) 23ヵ寺
高知県(修行の道場) 16ヵ寺
愛媛県(菩提の道場) 26ヵ寺
香川県(涅槃の道場) 23ヵ寺

 

お遍路 

同行二人とは
お遍路さんの合言葉として「同行二人(どうぎょうににん)」という言葉があります。
お遍路という修行は一人でやっていても、隣でお大師様が見守っているという考えです。その証拠に、お遍路さんが身に着ける衣装にも「同行二人」の文字が書かれているものが数多くあります。
現代はインターネットが普及し、コンビニ、自販機も数多くあるので、歩き遍路であっても安全に巡礼できます。
しかし、本来のお遍路は厳しい修行だったため、途中で亡くなってしまう事もありました。そこで、「同行二人」という言葉はお遍路さんの心の支えとなったのです。
お大師様は死後も四国で巡礼しているという考えは、お遍路さんだけでなく高野山などの弘法大師信仰の中で今でも残っています。
お接待とは
お接待(おせったい)はお遍路の重要なキーワードです。お遍路中は次のような会話に出会うことがよくあります。

お遍路 

お接待とは、飲み物や食べ物などを無償で提供してくれることを言い、四国に根付く文化です。お接待には、お遍路さんを応援する気持ちや、弘法大師への施しの意味が込められています。
札所や遍路道に近い地域に住む人は、お遍路は大変だということを知っています。特に、歩いてお遍路をする場合、1200kmを歩くことになります。
そのため、お遍路さんは真面目で努力家であるというイメージが自然に付加されます。心から「がんばってください」というメッセージやお遍路さんへのサポートがお接待という形に現れるのです。
また、お遍路さんを弘法大師と同一視する人もいます。同行二人の考えから、お遍路さんは常に弘法大師とともに修行をする身だからです。
お接待は、一切見返りを求めません。常にギブ・アンド・ギブの姿勢でお遍路さんをもてなします。お遍路さんは四国で大量の恩を受けることになります。その結果、四国を一周したお遍路さんは口をそろえて「ありがたい」、「感謝」という感想を言葉にします。
是非、お遍路を経験した方のお話を聞いてみてください。必ず「感謝」の言葉が自ずと溢れて来るでしょう。
衛門三郎伝説とは
全ての札所には弘法大師に関する伝説が残っています。空海自身が彫った仏像が安置されていたり、その地で修業をしたりなどです。
中でも人々がお遍路を巡るようになった1つの理由として有名な伝説があります。

衛門三郎伝説
鎌倉時代、衛門三郎という豪族が現在の愛媛県松山市に住んでいました。彼は非常に欲深い男で自分は優雅に暮らす一方、労働者には厳しく待遇していました。
ある日、一人の僧が門前に訪れ、食べ物を求めてきました。衛門三郎は何も与えずに追い払いましたが、次の日も同じように僧が托鉢に訪れました。
衛門三郎は8日間連続で乞食僧を追い払いました。8日目には嫌気がさして僧が持っていたお椀を地面にたたきつけ、8つに割れてしまいました。
それをきっかけに僧は托鉢に訪れなくなりましたが、衛門三郎の子供8人が次々に亡くなる現象が現れました。自分が無礼を働いた僧は四国で修業をしていると聞く弘法大師だったことに気づいたのです。
会ってお詫びをしたいと考えた衛門三郎は弘法大師の後を追いかけてお遍路の旅に出ました。しかし、20回お遍路を回っても弘法大師に出会うことができなかったため、21回目は逆向きに巡ることにしました。
ようやく弘法大師に再開して過去の罪が許されました。力尽きた衛門三郎はその場で息を引き取り成仏したのです。

このほかにも様々な伝説が残り、弘法大師・空海という人物に対する信仰心が四国八十八ヵ所のお遍路が1,200年続いている一因です。
また、衛門三郎と同じように、お遍路を巡れば自分の罪を懺悔できる、願いが叶う、煩悩を払うことができるなどと考えて周っている方もいます。
信仰と観光
ここまで読まれた方は、お遍路には仏教や空海の真言宗を信仰する人が行うものだと思うかもしれません。確かに、室町時代以前は空海が修行した四国で同じように修行する僧侶が多くいました。
しかし、江戸時代に入ると旅を目的としたお遍路が流行し始めました。そのきっかけが「四国辺路道指南」という本です。この本は88ヶ所の寺が紹介されているガイドブック的なものでした。ここから、観光目的のお遍路が急増しましたのです。
そのため、現在のお遍路に信仰心はなく、観光気分で訪れて全く問題ありません。ただ、信仰心を持たずに巡礼が行われるということは世界的に見ても珍しい様式です。世界の巡礼はチベットのポタラ宮への巡礼、イスラムのメッカへの巡礼など宗教的な意味合いが強いものが多いのです。
最近では観光バスで四国八十八ヵ所の旅が企画されています。また、大学生が自分探しのために歩いてお遍路をすることや外国からお遍路に来る事も珍しくなくなりました。
このように観光と宗教が程よく混在し、だれでも癒し、楽しみ、成長を得ることができるスポットは世界中どこにもありません。