四国八十八ヶ所お遍路:51番札所 石手寺の衛門三郎

四国各地に弘法大師の伝説が数多く残されています。中には疑ってしまうような内容の話もありますが、例え話として教訓となるため現在まで語り継がれています。
弘法大師が長い年月を経ても信仰されるのは理由があります。大師はカリスマ性やリーダーシップを持ち、人を引き付ける行動を行っているからです。
伝説通りの奇跡が本当に起こったかどうかは分かりません。しかし、弘法大師は厳しい修行をして中国で密教を習得し、日本で多くの人を助けたことは事実だと考えられます。そのため伝説が現在まで語り継がれているのです。
人間の心理や行動の基本的な原則は1000年前も今と変わりません。つまり、日常の悩みを解決するヒントがお遍路を考えることで見えてきます。
実際、お遍路を巡る理由として「自分探し」、「精神の鍛練」といった自己啓発的な理由が多い事にも納得できます。

石手寺の衛門三郎伝説

昔々、衛門三郎と言う豪族が現在の愛媛県松山市に住んでいました。彼は強欲な性格で貧しい人々に厳しい労働をさせ、自分は優雅に暮らしていました。
ある日、一人の僧がやってきて食べ物を求めて来ました。すると、衛門三郎は何もあげるものは無いと言って追い返しました。
しかし、僧は毎日家の前に来て食べ物を求めました。八日目に嫌気がさして僧が持っていた鉄鉢(てっぱつ)という托鉢の時に使用するお椀を地面にたたきつけて八つに割ってしまいました。
次の日から僧は現れなくなりましたが、衛門三郎の八人の子供が毎日一人ずつ死んで死んでしまいました。自分が無礼を働いた僧が空海だったことに気づき、会って謝罪するためにお遍路の旅に出かけました。
衛門三郎は20回も四国を巡りましたが空海に合うことはできませんでした。そこで21回目はこれまでとは逆向きで四国を巡ることにしました。
すると、12番札所焼山寺の近くで空海に再会し、過去の罪が許されました。さらに、空海は衛門三郎の願いを一つ叶えると約束したので「来生は国の政治をを司る役人である国司になりたい」と言いました。
この時、空海は衛門三郎の左手に小石を持たせて、必ず一国の主に生まれ変わるのだぞと願いました。力尽きていた衛門三郎はその場で息を引き取りました。
その後、ある家に男の子が生まれましたが、左手を開こうとしません。そこで安養寺の住職に祈祷をしてもらうと左手が開き、衛門三郎再来と書かれた小石が出てきました。
これをきっかけに、安養寺は石手寺へと名前を変えました。
 

教訓

弘法大師の伝説は超常現象の言い伝えではなく、人が生きるうえでの教訓が込められています。
衛門三郎のように強欲で独り占めする人、困っている人を助けない人には、不幸なことが訪れるというメッセージが分かります。
罪を犯すと死ぬまで抱える
21回も四国を巡り続けて空海に会い、そのままのまま死んでしまったように、自分が犯した罪は死ぬまで抱えなければならないのです。
罰を受けるよりも自分で思い悩む方が苦しいのかもしれません。
人間関係
衛門三郎が無礼を働いた人物が空海だったために、このような結果になったという訳ではありません。現代の人間関係を考えてみても当てはまります。
普段、人に嫌われるような態度を取っている人は自分が困ったときに誰も助けてくれないでしょう。病気にかかってもお見舞いに誰も来てくれない。葬儀をやってくれる人もいないという状況になってしまいます。
そうならないためには、人間関係を良好に保つよう努力しなければなりません。それは、思いやりの心を持ったり自己中心的で強欲さを減らしたりすることが基本となってきます。