弘法大師・空海の足跡を巡る四国八十八ヶ所霊場巡り、通称お遍路には1200年の歴史があります。長い歴史の中で多くの参拝者を受け入れ、歴史を守ってきました。
現在のお遍路は国籍や宗教、目的などを問わず誰でも受け入れ、手段も車や自転車など何でもよく、自由にお遍路を楽しむことができます。
このように、お遍路に決まったルールはありませんが、八十八ヶ所の札所を巡るという方法が広く知られています。また、札所には1番から88番までの番号が付けられているので、順番どおりに巡る方法がメジャーな方法です。
なぜこのような順番で八十八ヶ所の札所が選ばれたのでしょう。
弘法大師の時代、八十八ヶ所は無かった
四国八十八ヶ所は今から約1200年に開創されたと考えられています。つまり、四国八十八ヶ所が誕生したのは西暦815年ということになります。
西暦815年は弘法大師が42歳の厄年にあたり、厄除けを祈念として四国にお遍路に出かけたとされています。しかし、四国八十八ヶ所が開創したという信頼できる記録は残っていません。
そもそも、当時の四国遍路は現在のお遍路とスタイルが異なるものでした。現在のお遍路は各札所をチェックポイントのように巡る聖地巡礼タイプですが、当時の四国遍路は、自然の中で自らを鍛える修行でした。
空海の時代、八十八ヶ所は弘法大師の時代に設定されていなかったのです。弘法大師にゆかりのある寺院は八十八ヶ所以外にも数多く存在しますが、なぜ現在の八十八ヶ所が指定されたのか、その理由も詳しくわかっていません。八十八という数字が煩悩の数に由来するとされていますが、実際のところは不明です。
実は、八十八ヶ所という数字が表れたのは17世紀、江戸時代に入ってからなのです。初めて八十八という数字が登場したのは1653年に澄禅という僧が著した「四国遍路日記」だとされています。
また、当時出版されたガイドブックのような書物「四国遍路道指南」では各札所が番号付きで紹介されたため、江戸時代になって初めて四国八十八ヶ所が公式に著され、広く知れ渡りました。
江戸時代のガイドブック「四国遍路道指南」の著者である真念は20回以上のお遍路の経験がある僧侶でした。また、真念は他のお遍路さんが道に迷わないように道しるべを四国中に設置しました。
こうして江戸時代になって、修行僧でなくてもお遍路に来る人口が増えたため、八十八ヶ所の認知度も上がっていったのです。
なぜ1番札所が徳島県鳴門市なのか
四国八十八ヶ所第1番札所の霊山寺は徳島県鳴門市にあります。ここを出発点として徳島→高知→愛媛→香川という順に札所番号が大きくなります。多くのお遍路さんはこの順番に従ってお遍路をします。
なぜこのような順番に決められたのでしょうか。
本州と四国が橋でつながったのは1988年の瀬戸大橋が完成したときです。つまり、それ以前は四国に来る手段は船以外にありえませんでした。
平安時代以降、近畿地方からお遍路に来る場合、淡路島を経由して鳴門に到着します。鳴門からは撫養街道(むやかいどう)という主要な道が延びていました。撫養街道を進むと最初に到着する札所が現在の1番札所、霊山寺だったのです。
その後は、仏教的に良いとされる右回りでお遍路を続け、最終的に香川県さぬき市の大窪寺にて結願します。結願後は1番札所へお礼参りをして再び鳴門から船で帰るというルートが王道だったため、現在の順番となったと考えられています。